
『百万坪から眺めると、浦粕町がどんなに小さく心ぼそげであるか、ということがよくわかる。それは荒れた平野の一部にひらべったく密集した、一かたまりの、廃滅しかかっている部落という感じで、貝の缶詰工場の煙突から立ちのぼる煙と、石灰工場の建物全体をつつんで、絶えず
舞い上がっている雪白の煙の他には、動くものも見えず物音も聞こえず、そこに人が生活しているとは信じがたいように思えるくらいであった。 私はその町の人から「蒸気河岸の先生」と呼ばれ、あしかけ三年あまり独りで住んでいた』
と、「青べか物語」の「はじめに」の章は終わっています。
この章の最後は、私の思い出とだぶって感じ、何となく目に浮かぶ情景でした。私の生まれは福島であり、小さなころ他の悪童達と町からだいぶ離れて遊び、帰りがけにその町の方を見るとリンゴ畑の向こうに、『ひらべったく密集した、一かたまりの、廃滅しかかっている部落という感じで?』町がみえたものでした。
そして
『私はその町の人から「蒸気河岸の先生」と呼ばれ、あしかけ三年あまり独りで住んでいた』
とありますが、前にも記したように、山本周五郎は昭和三年の八月から同四年の九月まで過ごすのです。 その根拠として当時山本周五郎が「青べか日記」をつけていた内容では、昭和三年の八月十二日から彼の日記が始まっているからなんです。がその日は・・
『今日は堀の薬師様の縁日であった。高梨夫妻が誘いにきたので出掛けた』
と突然「高梨夫妻」の話が登場することから、この「青べか日記」は浦安に住んで、しばらくしてからつけはじめたのだろうかという疑問が私の心に生じたのです。
注:青の太字は山本周五郎作「青べか物語」の原文から引用しました。
参考文献:山本周五郎著「青ベカ日記」
木村久邇典著「素顔の山本周五郎」
同 「青ベカ慕情」
同 「山本周五郎・青春時代」
右の写真は市役所に近い東水門です。以前はここが境川の河口でした。一部写真の左側に市民会館が見えまする。ですからこの左右がむかしの海岸線なんですねっ。
ここから江川橋までの上流の水辺は整備されてきれいになっています。水門の手前左側はちょっと芦が生えているようです。
青べか紀行 P7




